考える自由があるようで、実は「正解当てクイズ」になってませんか?
■ あるある:「自分で考えろ」のトラップ
- 上司:「自分で考えてみろ」
- 若手:「こういうのはどうでしょう?」
- 上司:「それは違う」
……いや、じゃあ最初から教えてくれよ、って思ったことありませんか?
「自分で考えろ」と言いつつ、
上司の中では“正解”が決まっているタイプ、案外多いんです。
■ 昭和的「育て方」は“考えさせてない”
「昔は口で教わるより、背中を見て学べ」が美徳とされていました。
でもそれって、
情報の共有を放棄していたとも言えるんですよね。
さらに、
- 上司に逆らうのはNG
- 正解を当てないと「甘えている」「社会人失格」扱い
という暗黙のルールがあり、
若手が「違う意見」を出す余地すらなかった。
つまり、
**“自分で考えろ”と言いながら“上司の機嫌を読むゲーム”**だったわけです。
■ 「考える力」は否定された瞬間に萎える
誰だって、考えた末に出した意見を即座に否定されたら、
「もう言わんとこ……」ってなりますよね。
特に若手は、
- 経験が少ないなりに一生懸命考えている
- そのプロセスこそ評価してほしい
のに、結果だけでバッサリ切られたら、
**「考えるって無駄なんだ」**と学習してしまいます。
そして厄介なのは、
その学習に自分で気づいていないことが多いという点です。
- 自分の中で「どうせ言っても否定される」という前提が無意識に根づく
- いつしか「何が正解か」を探すことが“考える”だと思い始める
- 自分の言葉を選ぶのではなく、評価されそうな答えを探す癖がつく
■ 「正解を探す思考」に気づくヒント
たとえばこんな経験、ありませんか?
- 「それいいね」と言われたくて、**自分の本音より“ウケのいい答え”**を考えていた
- 何か提案するとき、「これ怒られないかな」が先に来る
- 「こうすれば評価されるかな」と**“答え探し”に必死になっていた**
この状態のとき、あなたの“考える”は、
あなた自身の視点や価値観から離れているかもしれません。
つまりそれは、
“思考”じゃなく“忖度クイズ”になっているということ。
こういう自分に気づいたときこそ、
「自分がどう思うか」に立ち戻るチャンスです。
だからこそ、「最近、自分で考えられないな」と感じたときは、
過去に“考えるのをやめた瞬間”がなかったか?
を一度振り返ってみると、心当たりがあるかもしれません。
■ 本当に「考えさせたい」ならどうすべき?
- まずは若手のアイデアに「なるほど」と受け止める
- 「こういう視点もあるよ」と追加の視点を投げる
- 結論が違っても、「考えたプロセス」を認める
つまり、
“考える”とは、上司の正解を当てることじゃない。
上司が“フレームの外”を認める力がなければ、
若手の「考える力」は根づきません。
■ 昭和の亡霊、ここにもいた
「自分で考えろ」は、もともと
思考の余白と裁量があってこそ成立する言葉
でも、そこに
- 正解が決まってる
- 上司の機嫌が関与してる
- 否定ありきの空気がある
……そんな状態で言われた「考えろ」は、
ただの“察して”指令、もしくは責任逃れワードに過ぎません。
それが今も現場に残ってるのは、まさに昭和の亡霊。
■ まとめ:考える自由を与えるには、まず否定しないこと
- 考えること=自由にズレてOKと思える空気
- 違っても「それも一理あるね」と返せる柔軟性
- プロセスを認めて、再考の機会を作ること
そうすれば、「考える」が「楽しい」になり、
人はもっと主体的に動けるようになる。
「自分で考えろ」を言いたくなったら、まず自分が
“ズレた答え”にどう反応しているか
を問い直してみるといいかもしれません。
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