それ、一般論じゃなくて“あなたローカル”の押しつけかも。
■ あるある:「普通は◯◯するだろ」
- 上司:「普通はこう頼まれたらやるよな?」
- 若手:「(え、それ今初めて聞いた…)」
この“普通は”シリーズ、
なぜかルールでもマニュアルでもないのに、
破ると怒られる。
でも実はそれ、
その人だけの“正解”を常識っぽく言ってるだけ
なんですよね。
■ “普通”とは、環境と経験で作られるフィルター
人は誰しも、自分の経験や育った文化をもとに
「こうするのが当たり前」と思ってしまいます。
- 家庭でのしつけ
- 前職での慣習
- 年代ごとの価値観
これが混ざると、
「普通」の中身は人によってまるで違う
のに、
無意識に“共通語”だと思って使ってしまう
その結果、
「なんでそんなことも分からないの?」
という誤解や怒りが生まれる。
■ 「普通は」と言う人の心理
- 自分の経験が正しいと思いたい
- いちいち説明するのが面倒
- 「常識」の立場に立つことで優位に立ちたい
つまり、
“普通”という言葉で、自分のルールを守らせようとしている
でもその“普通”、本当にみんなの共通認識ですか?
■ それ、ただの「説明不足の正義」では?
「普通は」と言われることで、
- 相手が間違っているように感じてしまう
- 自分の価値観が否定される
- 萎縮して質問や反論ができなくなる
でも冷静に考えると、
ちゃんと説明されてないのに“常識違反”にされただけかもしれません。
つまりそれは、
“教えなかったのに怒る”という、育成としては最悪のパターン
■ 「普通」を手放すと、伝わる力が上がる
- 自分の中の“普通”がどこから来ているのかを意識する
- 相手の“普通”とのギャップを前提に話す
- 「普通は」ではなく「私はこう考えている」と主語を明確にする
そうすることで、
共通ルールの押しつけではなく、“対話”が始まる
■ 昭和の亡霊:「普通という名の不寛容」
昭和の時代は、
- 終身雇用
- 男性中心社会
- 努力と根性の文化
という“同質性の前提”が強かった。
だからこそ「普通は◯◯だろ」が通じた。
同じ会社で一生を過ごすことが前提の時代には、
その会社内で通じる“普通”が、あたかも社会全体の常識のように振る舞えた
でも令和の今、
- 働き方も多様
- 価値観もバラバラ
- 情報も選択肢も山ほどある
- 終身雇用もすでに幻想になりつつある
そんな時代に「普通」で片づけるのは、
多様性を見ないふりする言葉になってしまう。
「普通はこうするだろ」と言いたくなったとき、
それって“自分の世界だけの普通”じゃない?
と一度立ち止まってみる。
それが、
昭和の亡霊に飲まれず、令和を共に生きるヒントかもしれません。
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