――それ、自由のはずじゃなかったっけ?
「もっと自分らしくしていいんだよ」
そう言われると、ホッとするはずなのに、なんだか息苦しくなる。
胸の奥がきゅっとなるあの感じ、経験ありませんか?
自分らしさって、もっと自由なものじゃなかった?
なんで、プレッシャーみたいに感じるんだろう?
“自分らしく”の時代に生まれた、新しい息苦しさ
かつての社会は、「空気を読む」ことが正義だった。
「周りと足並みを揃える」「はみ出さないようにする」
そんな“正しさ”が求められていた。
でも時代は変わった。
多様性、個性、選択の自由…
「もっと自由でいいよ」「自分らしく生きていい」
そんなメッセージがあふれている。
――それなのに、なぜか生きづらさは消えない。
「自分らしくしなきゃ」が、新しい“空気”になっている
昔は「空気を読め」と言われて苦しかった。
今は「空気なんて読まなくていい」と言われる。
でも実は、その裏でまた別の“空気”が漂っている。
たとえば、こんな経験はないだろうか:
- SNSで“素の自分”を出したら、「それってあなたっぽくない」と言われた
- 自己PRで「あなたの個性は何ですか?」と問われ、言葉に詰まった
- 周りがどんどん“らしさ”を表現する中で、自分だけ置いていかれる感覚
そう。
「自由にふるまうにも、センスがいる」
「個性がないと埋もれてしまう」
そんな“新しい空気”を、私たちは無意識に読んでいる。
“らしさ”が、評価の対象になってしまった
「自分らしくしよう」という言葉が、
いつの間にか「らしさを出さなきゃいけない」というプレッシャーに変わっている。
- “ちゃんとした自分”から
- “らしい自分”への、評価のすり替え
評価の基準が変わっただけで、
「ちゃんとしなきゃ」から、「らしくしなきゃ」へ
“ねばならない”は、形を変えて生き続けている。
じゃあ、「自分らしさ」ってなんだろう?
それは、何か特別な才能や見た目やセンスの話じゃない。
もっと静かで、もっと曖昧なもの。
- 誰かに言われたときに、なんかしっくりこなかった言葉
- 周りが盛り上がってるのに、自分だけ笑えなかった場面
- 「ほんとはこうしたかったのに」と思った、あの瞬間
そんな小さな違和感やざわつきの中に、
自分らしさの“原石”が眠っている。
自分らしさは、演じるものじゃなく「育てていくもの」
「自分らしくしなきゃ」は、すごくがんばってる証拠。
でも、本当の“らしさ”は、がんばって出すものじゃない。
それは、日々の選択や迷いの中で、
少しずつ育っていくもの。
他人の“いいね”じゃなく、自分の“しっくり”で確かめていくもの。
最後に:らしくなくても、いい日があっていい
「今日はらしくふるまえなかったな」
そんな日があっても、大丈夫。
自分らしさは、“ある日できあがるもの”じゃない。
ざわつきを見つけたあなたは、もう十分、“らしい”一歩を踏み出している。
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