その挨拶、“礼儀”というより“支配の儀式”になってませんか?
■ あるある:「最近の若いやつは挨拶もできん」
- 若手:「おはようございます」
- 上司:(無反応 or 無視)
- 数日後:「あいつは挨拶ができん」
……いや、言いましたよね? ちゃんと挨拶してるのに、なぜか「できてない」ことにされてる不思議。
それ、ほんとに“挨拶の欠如”なんでしょうか?
■ 「挨拶=礼儀」ではなく「挨拶=従順チェック」?
「挨拶ができない」という言い回しの裏には、
- 声が小さい
- タイミングが気に食わない
- 相手の存在感を無視している といった“主観的な基準”が潜んでいます。
つまり、
挨拶そのものではなく、“され方”へのこだわり
これが満たされないと、「無礼」「最近の若いもんは」に発展する。
■ それ、礼儀じゃなくて「存在確認の儀式」になってない?
「挨拶しろ」と言うけれど、 その本質が
“相手が自分を認めているか”の確認 になっているとしたら、
それは「礼儀」じゃなくて
**“支配のためのスキャン”**になっていませんか?
挨拶を返さないのに「されなかった」と言う。 若手が怯えながらタイミングを図る構図。
それ、もはやコミュニケーションではなく、
一方通行の従属チェックです。
そして怖いのは、 この目に見えない“自分基準”の横行が、職場に困った空気を生み出していること。
- 自分の挨拶が通っていない気がする
- なぜか注意されるけど理由が曖昧
- 自分が悪いのか、相手の機嫌なのかが分からない
こういう状態が続くと、
自信をなくし、「相手の基準に合わせなきゃ」と思考が変化していく
そして気づけば、
「挨拶とは“上司が気持ちよくなるための儀式”」と錯覚するようになる
これはもう“礼儀”ではなく、“忖度の始まり”です。
■ 昭和的「礼儀=上下関係」思想
- 「目上の人には礼儀を尽くせ」
- 「年下から挨拶しないのは失礼」
- 「礼儀は社会の基本だ」
間違ってはいません。 でもそれが「目上が偉いから下が礼を示せ」になると、
対等な関係を築く手段ではなく、上下を確認する装置になってしまう。
そしてこの装置がうまく動かないと、 「最近の若いのは…」が起動する。
■ 本当に大事なのは「挨拶そのもの」じゃない
- 自分から声をかける習慣があるか
- 相手に関心を持っているか
- 気まずさを回避する手段としての挨拶を理解しているか
つまり、
礼儀とは「他者と関係を築く意志」そのもの
形式だけで評価しようとすれば、 「声が小さい」「目を見ない」「順番が違う」と、 どこまでも揚げ足取りになる。
■ 「若手は挨拶できない」って言いたい病の処方箋
- 挨拶されたとき、ちゃんと返してる?
- その若手、誰にでも挨拶しないの?それとも自分だけ?
- 自分が不機嫌なとき、スルーしてない?
“挨拶されてない”んじゃなくて、“あなたに挨拶したくないだけ”かも?
って可能性、ゼロじゃないですよね。
「若手が挨拶できない」という前に、
自分が“挨拶される人”であるかどうかを、少しだけ見直してみると 時代に合った関係性が築けるかもしれません。
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